ア
人生の意味について
※以下の文章は私が履修した哲学の授業で課された期末レポートをそのままコピペしたものです。(もう多分成績自体は確定しているはずだからいいよね)課題は「人生の意味について、授業で扱った内容をもとに、あなたなりの考えを述べなさい」というものでした。こんなレポートを書かないようにという反面教師の意図も込めて、晒そうと思います。
2015→2016
皆様あけましておめでとうございます。2016年もよろしくお願いします。
2015年はぶっちぎりで過去ワーストの年だった、と思う。留年したしフラれたりしたし。まあそういったことの主原因はあくまでも僕にあるわけで、決して2015年という年のせいではない。ただ、やっぱり2015年という年は僕にとってはとてもつらく、長く、厳しい一年だったことは認めざるを得ないのかな、とは思ってしまう。
でもそんな2015年も決して悪いことばかりではなかった、とも思う。多くの人たちに出会うことができたし、前々から会ってみたかった人とも出会うことができた。そういった意味では面白い一年だったようにも思う。
2016年の目標なんて今すぐには答えられないけど、一つだけ挙げるならやっぱり進級することなのかなあ、と思う。とりあえず僕が今抱えている問題って大体が進級さえできれば解決する問題だしね…。まあなんにせよ、2016年もいっぱいいろんな人に迷惑や心配をおかけするとは思いますが、どうか見捨てず仲良く遊んでくれたらうれしいです。では、改めまして、2016年もよろしくお願いします!
何もないという話
書くことがない。
最近はてなブログなんも書いてないな~と思ってパソコンに向かったのはいいが、本当にここ最近を振り返ると、びっくりするくらい何もない毎日だったことに気づかされる。朝起きて(嫌々)大学に行ってバイトして帰って家でゴロゴロするだけ、という毎日を無限に繰り返している。これが平穏であるか無味乾燥な日をただ過ごしているだけなのかは僕にはわからないけど、少なくとも精神的にはいい毎日なのだろう、たぶん。
これは何もブログに限った話ではなくて、Twitterにも同じことが言えて、特に何もつぶやかないままTLだけをぼーっと眺める、ということが非常に多い。だから最近ツイートの頻度は減っている。インターネットからの卒業だ、おめでとう。(棒読み)
もっともこの状態は永遠には続かなくて、僕が言わなきゃいけないのに言えないままでいるたくさんのことが年明けや3月くらいにはどっと大量に押し寄せてきて発狂するのは確実なのでそれまでの残り少ない時間を大切にしなきゃならないんだろうな~と思う。過去は自らを縛るけれど、未来は自らを壊しかねない。未来は本当に考えたくないよ…。
まぁそんなわけで僕はたぶん元気です。今がずっと続けばいいのになぁ…。
無理
限界だもうありとあらゆることが無理になってるつらい大学はきっと進級無理だしじゃあだからと言ってスパッとやめるわけにもいかないし就職にしろ公務員受けるにしろ何するにも覚悟も気力もないし決断することができないからこのままずるずる3月の成績発表まで残り時間が減るだけだしそもそも今やめるにしても周りを説得できないしまあこのままいけば中退だからいいんだけどどうやって食べていくのか全然ビジョンが見えないし今受けてる授業ははっきり言って苦痛でしかないし結局将来自分がどうしたいのかどうなるのか全く見えないしでもただこれ以上大学にいてもいいことは絶対ないし死ねるもんなら死にたいけどそんなにさくっと死ねるものじゃないだろうし結局何やるにも覚悟がたりないという現実と残り時間だけが刻々と減っていくだけなのは本当につらいしもうなにがなんだかわからなくなってきてとりあえず空白の時間が怖いからバイトだけはアホみたいにいれるけど結局バイト中にもわけわからないこと考えてしまうし何をどうしたらいいいのかわからない本当にわからない半年後自分がどうなっているのかまったく見えなくてつらいしんどいでも結局こうなったのは100%自分自身の怠惰さのせいだしもう無理本当に無理僕自身を一番追いつめているのは自分自身だし本当にどうすればいいのかわからない助けて助けて助けて誰か助けて!
夏
夏がくる。
正直なところ、夏休みは大学生となった今、さほど楽しいイベントではない。毎日が休日、ということはサークルの仕事やらバイトやらの予定がみっしり詰まり、かえって大学がある時の平日のほうがゆっくりできるのではないだろうか、という疑念すら残る。もともと労働というものは時間を肉体を使って金銭に変換する作業でしかない、という考えなので働き甲斐などといったものをはじめから求めていないし、また何もしていない時間が長く続くとかえって不安になることもあいまって、夏休みの間、朝から夕方まで少なくとも七月中は一日も手帳が空白の日がない。まぁ馬鹿なことをしているなあ、とは思う。こんな生活スタイル、維持できるわけがない。
僕は「今日を生き延びなければ明日なんて来ない、明日のことは明日考えればいい」という考え方をしていて、そういうところが瞬間的に自分自身を追い詰めているような気がしてならない。結局母親だなんだ元カノがなんだ、ということを言っても、結局のところ自分をここまで追い詰めているのは自分なんだなあという事実をいまひとつ理解できないでいるらしい。
結局のところ自己管理ができていないのだろうな、と思う。そうして夏という季節は自己管理ができていない人間にとっても厳しい季節だ。たとえば熱中症であったり、過密スケジュールであったり、なによりも試験があったり…。
夏がくる。
煙草
留年して時間割がスカスカなこともあって、最近アルバイトを増やしている。何もしていないと不安になる、というのもあるし、大学の課題やらなにやらから逃げ出している、という側面もある。
そうやって一日を過ごす中で、アルバイトというものは所詮余った時間を体力を使って金銭に変換する無為な作業でしかない、という事実に最近うっすら気づいているなかで、今日も明日もひたすらバイトをする。あ、バイトは日本で一番嫌われているファーストフード店です。
そうやってクタクタになるまで働く中で一応存在する休憩時間は、たいていご飯を食べて、食後に煙草を一服して終わる。
ご飯を食べて、喫煙所に行って煙草を吸っている時間というのは何も考えることなくボーっとすることができて、ストレスのたまる労働時間の中では数少ない精神的に安定する時間だ。喫煙所といっても道路に面した通路にスタンド灰皿があるだけの場所だが、いかんせんそこでしか煙草が吸えないのでやむなく皆そこに集まるのだ。
あらかじめ買っておいた缶コーヒーを片手に、煙草に火をつける。本格的に吸い始めてからはアメスピの黒がメインだ。アメスピは他と違って燃焼剤が入っていないのでなかなか火がつかない代わりに長く吸うことができるのが利点だ。だから、僕より後に来た人が僕より先に吸い終わって場を立ち去る、ということがしょっちゅう起こる。その様子を観察するのもまた楽しみである。煙草を吸って地面に腰を下ろして空と目の前を走る車をぼんやり眺める。
健康に悪いと知っていながら、それでもなお煙草を吸い続けるのは結局なぜなのだろうか、というようなことも考えないわけではない。最初に煙草を吸い始めたのはちょうど大学生として完全に行き詰っていた時で、何かを変える必要があったからだ。今もなおなぜ吸っているのか、ということを考えると、周りが皆吸っていてコミュニケーションツールとして、ということもあるのだと思う。ただ、それ以上に生き急ぎたいから、という面も少なからずあるような気がしている。皮肉なものだ。生き急ぐために吸っている煙草によって、自分という存在をかろうじて保っていられるのだから。
昔、誰かに煙草やめたら?と聞かれて精神状態がよくなったらね、と答えた気がする。それはきっと正解であり、嘘でもあるのだろう。なぜなら精神状態がよくなった時の自分がどういったものか今の僕には想像することができないのだから。