ペンと剣は戦わない

生きていくために俺はあと何を犠牲にすればいい?

人生の意味について

 ※以下の文章は私が履修した哲学の授業で課された期末レポートをそのままコピペしたものです。(もう多分成績自体は確定しているはずだからいいよね)課題は「人生の意味について、授業で扱った内容をもとに、あなたなりの考えを述べなさい」というものでした。こんなレポートを書かないようにという反面教師の意図も込めて、晒そうと思います。

 
 第一節:人生の意味の問題
 
  私たちの人生の中で、その意味について考えることは数多い。たとえば、進路を決めるとき、挫折したとき、生きることに疲れ切ってしまった時などにおいて私たちはしばしば、人生の意味について自問自答するだろう。この「意味する」ということとは、「その人自身がその人生を生きることへの十分な理由がある」ということである。この人生の意味という課題は哲学的にも最も根源的な問いの一つであり、また私たちにとって最も身近な哲学的な問いであるように思う。人生の意味をめぐる問いには大きく分けて主観説、客観説、さらにその二つが組み合わさった混合説の三つの考え方がある。以下のレポートでは私は主観説の立場をとり、議論をしていきたい。そこで第二節では主観説、客観説双方の立場を説明したうえで、その問題点を明らかにする。第三節では主観説の立場から、その問題点をどのように答えられるかについて、私なりの考えを述べ、主観説の擁護をしようと思う。最後の第四節ではもう一度私の考えについて、簡単にもう一度述べていく。
 
第二節:主観説と客観説
 
 先述したとおり、人生の意味をめぐる考え方には主観説と客観説という二つの考え方が存在する。この主観説と客観説の大きな違いは、自分の人生が価値あるものになるかが自分自身の主体性に依存するのか、それとも客観的に価値あることに依存するか、という違いである。
主観説はアメリカの哲学者であるリチャード・テイラーが提唱したものであり、「我々の人生は永遠に岩を押し上げ続ける(しかし、その岩は山頂についたところで転がり落ちてしまう)シーシュポスの生涯にきわめてよく似ており、似たようなことの繰り返しであり、その繰り返しにはなんの重要性もないものである。加えて我々はシーシュポスのように美しい神殿のような永続的に続く客観的に価値あることを生み出すことはできない」というものである。テイラーによれば我々は確かに客観的に価値あるものを生み出すことはできないが、欲求を持つことによって自分の人生に意味を与えることができる。人生の意味とは、さまざまなことを望みつつ生きている当人の観点から見ることによってはじめて人生の中に見出せるものであり、「我々の人生が意味を持つことは我々の主観的な欲求のあり方に決定的に依存している」のである。これが主観説である。
 一方、客観説はオーストラリアの哲学者であるピーター・シンガーが提唱したもので、それによると、私たちの人生の意味を自分の内面に求める行為は「現代人の間にひどく『疑わしい価値観』を生み出すもの」であり、これが現在人の多くを不幸にしてしまっているのである。人生を満足感のあるものにするには、この世にあるより多くの苦しみを減らすことが必要であり、こうした考え方は退屈や目的の喪失といった主観説が抱えがちな困難とは無縁であり、また誰にでもできるという部分で、多くの人に門戸が開かれているとシンガーは主張する。これが客観説である。
 主観説、客観説はともにどちらも克服すべき問題点を抱えている。まず客観説の問題点であるが、もっとも大きな問題点はやはり意味ある人生の定義があまりにも狭すぎる点であろう。シンガーの主張する意味ある人生は、確かに万人にとって誰でも実践可能なものであるが、実際には乗り越えなければならないハードルは高く、また個人的な快楽もない。それでいて人生においての個性というものが全くなく、あまりにも平坦化されているというのが問題である。さらにいうならば、客観説では主観的な価値が全く認められていない。これはやはりあまりにも極端すぎるものであり、やはり問題点と言わざるをえない。
一方主観説の問題点であるが、まず永続的には続かないが、その価値は失われないもの、さらに言えば、失われてしまうからこそ価値が存在するものといったもの(たとえば花火など)といったものへの考慮がなされていない、あまりにも物質主義的なものであることがあげられる。また、主観説というのは、意味あるあり方を自分自身の内面に求めるしかない考え方である。例えば、主観説を信仰する教師が開発した自らの人生において、「低賃金で単純な作業を日ごろ行い、休日はただテレビを見るだけでよい」という欲求を生み出す薬を飲まない理由を主観説の立場ではうまく説明することができない。シンガーの言葉を借りるなら、自分の内面に目を向けるということはひどく刹那的なものであり、現実を切り離しても自己とはひどく貧しいものであり、価値あるものを与えてくれるものとしては不十分なものである。よって「そもそも、自分の意味ある人生にあり方を考えるときに自分の内面にひたすら目を向けるのは適切な行為なのか」という問題が発生する。
また、客観説と主観説を組み合わせた混合説というものも存在する。これは客観説が主観説に一部譲歩し、倫理的によりよいことのうちで自分の欲求と合致しているあり方こそが意味あるあり方であるという考え方である。
 
第三節:主観説の課題に対する返答と私にとって意義ある人生
 
 先ほど述べたとおり、主観説の課題は大きく分けて二つある。一つ目は「自分の内面に意義ある人生を求めるのは適切なのかどうか」二つ目は「永続的に失われないからこそ価値があるものの扱いをどうするのか」である。これについて、第三節では私なりの考えを述べていこうと思う。
まず一つ目の「自分の内面に意義ある人生を求めるのは適切なのかどうか」であるが、これについて私はやはり適切なやり方であると考える。そもそも自分の人生というものは当然だが自分が主人公であり、そのあり方を客観的な価値あるものに求めるというのは自己がおざなりになってしまうという危険性があるように思う。自己をどれだけ見つめても貧しいものしか得られない、という客観説からの批判は理解できるが、逆にその自己をどれだけ豊かにできるか、というのはやはりその人個人による裁量によるところが大きいと思う。したがってやはり我々は、意義あることを自分自身の内面に求めるよりほかの選択肢はないのである。
続いて二つめの「永続的に失われないからこそ価値があるものの扱いをどうするのか」かであるが、私は永続的に続かないからと言って、その価値は失われるものではないと考える。確かにテイラーの言う通り、人間が作り出すものはいつか崩壊し、それ自身に客観的な価値はないのかもしれないが、しかしそういったものは目には見えない記憶として人々の心に残っていく。そうした記憶から人々はまた新しい何かを作っていくし、そういったサイクルは人類が存続する限り、もしくは人類が滅びてほかの種族が地球を支配したとしても続いていくと考えられる。よって、確かに一つ一つのものは永続的に続かない、客観的な価値はないかもしれないが、長い目で見れば永続的に続いていくのである。
ここまで主観説に対する課題について答えてきたがここからは私が自分の人生をどのようなものとして生きるかについて答えていきたいと思う。私にとって意義ある人生とは、「自分にとって大切な何かを生み出せる」人生である。自分にとって何か一つでも後世に伝えられる何かを残すことができたとするならば、それこそが意義ある人生になるのではないだろうか。仮にそれが永続的に続かないものだとしても、何らかの形で記憶(あるいは記録)に残るのであればそれは私個人にとってみれば明確に生きる理由となりうるのではないかと思う。我々の人生は確かにある意味宇宙規模で考えるならば何の価値もないのかもしれないが、しかしだからと言って何も生み出さなくてよいというものではない、というのが私なりの考えである。人は結局のところ、何らかのもの(たとえば子供など)を生み出し、後世に伝えていくしかできないものなのである。
 
第四節:まとめ
 
 私の考えを簡単にまとめる。意義ある生き方を自分の中に求めるという行為は、人生を生きるのが他でもない自分自身である以上ほかに選択肢はなく、適切な行為である。その自己をどれだけ豊かにできるかどうかは偏に自分自身に課せられた問題であり、外部から直接影響を受けるなどということはない。また、人は仮に外見上永続的に続くものを生み出せなくても、記憶という形で後世に伝わっていく。それらは決して客観的に無価値なものでなく、のちに新たなものを作り出していく際の礎となるものであり、そういったサイクルで眺めるとするならば、永続的な価値は発生する。私自身にとって意義ある人生とは、「私にとって大切な何か」を生み出せる人生であり、何らかの形で人の記憶に残るのであれば、それは私にとって生きる理由となるべきものである。