ペンと剣は戦わない

生きていくために俺はあと何を犠牲にすればいい?

屁理屈をこねくり回すだけの1240文字

 ずっと前にこのブログで「神様とかそこらへんについてはまぁ気が向いたらやります」と言った。気が向いたのでそこらへんのことを書こうと思う。基本的に意味不明な言葉の列が延々続くと思うのでまたシルコレがわけわからんこと言い始めたぞぐらいに軽く読んで下さい。

 

 

 

 

 僕はよく「何が正しいのかなんて、自分が決めればいいんですよ」という言葉を口にする。要するに絶対的な価値観なんてないんだよ、ということになるのだが、一歩先を考えてみると、「この世界の主人公は君たち一人ひとりなんだよ」ということになる。この世界というものは実は一つのはっきりした形があるわけではなくて、みんながみんな一人ひとり持っているいわば小世界的なものによって構成されているのだと思う。で、この小世界は人間だけでなくて植物や動物、果てはこの世すべてにある物質が持っている。そういう小世界を無数に含んで一つにまとまっているもの、それこそが僕らが「世界」と呼んでいるものの実態なのだ。

 で、その小世界がそれをもつ物質自らの意思で動いた結果が我々が現象、と呼んでいるものになる。たとえば皿が僕の手から滑って落ちた場合、この場合は僕が皿を意識の外で落とした、のではなく「皿が僕の手から離れるものを望んだ」ということになる。要するに物質すべてに意思があり、世界で起こる現象はすべて何かの意思が働いた結果、ということができるだろう。

 ところが、往々にしてこの理屈では説明できない現象というのが存在する。そういうものを説明するための都合のよい方便として持ち出されるのが神と呼ばれる存在だ。何の意思が働いたかわからないものはすべて神の意思によるものだ、としてしまえば説明できない現象はない。したがって、神様は実際にはいない。人間が作り出したただの偶像にしかすぎない、というのが僕の考えである。

 では、なぜ人は宗教というものを信じるのか?それは小世界の中で決めることが多すぎる、ということに由来する。前述したとおり、一人ひとりがもつ小世界の主人公はいうまでもなくその人自身である。したがって何が正しいか、間違っているかなどといった基本的な価値観すべてを僕ら一人一人は決めなくてはならない。ところが全員が全員、価値観がバラバラだと当然集団としてのまとまりが取れなくなってしまう。そのために教育という、価値観をある程度統一させる行為が行われる。1+1が2であるのはそれが真理であるからではなくて、万人がそう信じる価値観を共有しているからなのだ。

 そのうえで、倫理観や基本的な考えのテンプレートとして、宗教といったものが用いられる。何が正しいか、なんてことをいちいち考えるのは疲れるからそういった考え方のベースをくれる宗教に時として人は飛びついてしまう。(それはある種、思考の放棄である、という風に僕には映る)僕が時々、人に向かって「この世界のことを考えなさい」と言うのはこれが主な原因である。

 

 だいたいこんなところかな。ね、意味わからないでしょう?