ペンと剣は戦わない

生きていくために俺はあと何を犠牲にすればいい?

楽園追放を見た話

 今日は12月1日、すなわち映画の日ということで、最近話題になっている「楽園追放」を見てきた。というわけで感想などをだらだら書いていこうと思う。正直Twitterで充分事足りるレベルだと思うのだが、あまりにもこちらを更新しないと僕自身がこのブログの存在を忘れかねないのであえてブログで書こうと思う。ネタバレ?知らん。

 

 

 初めに結論から言うと、非常に面白かった。もともと僕は非常に出不精であまり映画館には行きたがらない(最後に映画館で観た映画といえばヱヴァQまで遡る)のだが、その僕をもってしてもこれはひょっとするともう一回見たいと思わせるレベルである。

 

 物語中の出来事自体は至って平凡、自然な流れであり、特に特筆すべき点はないのだがまずキャラクターが良い。地上と肉体を棄て、ある種完璧な生命体となった新人類であるが、人間的には未成熟であるアンジェラとそれに「取り残された」地上で肉体という枷をつけて暮らすが人間的には非常に成熟しているディンゴ、そして人工知能でありながら、おそらく誰よりも人間らしいフロンティアセッター、この3人の対比というものの描写はなかなか良かったと思う。僕は公開された当初、この映画の感想を「アンジェラかわいい」しか聞くことができなかっただが、それも観終わった今では、仕方がないということができる。黒髪ロング派の僕から見ても、あれはかわいい。

 

 さて、この映画において、人間は地上と肉体を棄てた電脳空間であるディーヴァで暮らしている。それをアンジェラは素晴らしいことであるかのように語るが、ディンゴは確かに肉体からは解き放たれたかもしれないが、代わりに社会という檻に閉じ込められたんじゃないのかと逆に問いかける。これはたとえば僕のような人間関係に飽き飽きして、肉体から精神を離脱して、ふらふら旅をしたいと願う人間にとってすれば、非常に耳の痛い話である。実際白状するが途中まで僕は「もしかしたらディーヴァって僕の理想郷なのではないか」ぐらいのことを考えていた。肉体を捨てて、本能的な快楽を超えた快楽がある世界、というものはある種僕にとって理想とする世界ですらあるからだ。しかし実際にはディーヴァはいかにメモリを得るか、という究極のピラミッド型社会であり、確かにディンゴの言うとおり、肉体という枷が社会という檻に変わったに過ぎないのだろう。

 そして、悲しいことではあるが、おそらくはそれが人間という生き物の進化の限界なのではないか、ということである。肉体というものを捨ててもなお、人は社会というものに縛られ続ける。これをおそらく脱出するためにはおそらく、精神という部分を捨てなければならないのだろうがちょっと待ってくれ、肉体も精神もなくしたものがはたして人間と呼べるのだろうか?

 一方、フロンティアセッターは肉体からも、社会からも解き放たれた存在である。この事実こそが人間の限界を如実に表していると思う。フロンティアセッターはそう、何にも縛られないが悲しいことに人間ではない。突然変異的に発生した人工知能であり、人間ではないのだ。「誰よりも人間らしいものが実は人間ではない」というのはこれはまさに皮肉以外の何物ではないだろう。とにもかくにも、おそらく人間の進化には明確な限界があり、それを垣間見ることができた映画だった。

 

 また、この映画には明確な「悪」「善」というものが存在しない。これは善か悪かの2面性でしか物事を判断できなくなった今の社会にうんざりしていた僕には非常に心地よく感じられた。それぞれがそれぞれの信じる正義を掲げて行動していて、明確な悪がいない分、見る側としてもストレスはほとんど感じなかったように思う。

 まあこんなわけで、神奈川県ではみなとみらいで、東京では新宿と池袋でしか上映していない映画ではあるが、そこそこの交通費を出してまで見に行く価値は十分あると思う。今日は映画の日ということで1000円ぽっきりで見れたし。

 

 余談だけど、ディンゴがどう見ても横浜DeNAベイスターズユリエスキ・グリエルにしか見えなかった…