ペンと剣は戦わない

生きていくために俺はあと何を犠牲にすればいい?

言い訳

 大学の後期試験初日までもう一週間ないのですが、いかんせん留年が9割方決まっているためにまるでやる気がおきないシルバーコレクターです。

 なぜ留年する事態になったかといいますと、それは当たり前ですが授業に出ないからで、じゃあなぜ授業に出ないのかということを考えるに、理由はたぶん二つありまして、一つは僕自身の怠惰さがリミットを超えてしまった、というのがあります。

 谷川流は「涼宮ハルヒの驚愕」のあとがきにおいて「怠惰をバックボーンに生きてきた私の人生のリミットが超えてしまった」みたいなことを言っていましたが、おそらくこれと似た状態なのかな、という気がしています。僕も小さいころからいかにサボりつつ努力しているように見せかけるか、をメインテーマにしてきたのですがこういう思考が根底にあると、正しいやり方で手順通りやろう、という気持ちがなくなっていきます。まずやらなくていいことをリストアップして、そこは絶対にやらない。次いでやらなきゃいけないこともうまく二つにまとめられないか、などしてとにかく絶対的な作業量を減らす癖がついてしまいます。

 もちろん、要領のいい人なんかはこれでサクサク前に進んでいくんでしょうけれど、いかんせん僕は不器用なので、別にそうやって作業を削ったところで普通の人より早くできるわけでもない、しかもいろいろ削ってるから土台がフラフラなわけですね。もうこうなるとどうしようもない。前にも進めない、後ろに戻ろうにも土台がないわけですから戻れない、どうにもならないわけです。そうなるともう留まるという選択しか出来ない。前にも進めず、後ろにも戻れず、ただずっと留まる。

 しかも最悪なのは僕が中高大と一貫校の出身だったために、留まったままでもなんとか大学までは進学できてしまったこと。このせいでまともに生きることを忘れてしまったんだと思います。

 ここでちゃんとした人なら何とかしよう、として後ろの土台を作って何とかしようとするのでしょうが、また怠惰さが顔を出すわけです。どうにもならないんだからあきらめろよ、と。まぁそれがずるずる来て今も授業にも出ず、PCを目の前においてのんきに遊んでいるわけです。

 

 二つ目の理由のほうがより深刻で、「授業が気持ち悪い」というのがあります。一般的に授業というと生徒はみなノートあるいはルーズリーフにひたすら黒板やスライド、あるいは教授のありがたいお話をノートにとるわけですね。自らの意思で、50人以上の人間が同一空間の中で全く同じ行動をとるわけです。

 これが、最高に気持ち悪い。

 なぜなのかはわかりませんが、とにかく授業を受けていると気持ち悪くなって、場合によっては吐き気までやってきます。僕が常々大学やめたいなあと思うのはこれが原因でして、こうなるともう大学が不快な場でしかないわけです。病院に行けば治るんでしょうが、なかなか病院まで足が伸びないというかそんなことで病院にいってもいいのだろうか、という妙な謙虚さが頭をよぎってなかなか行けない。

 思うに、僕は人間に何を求めるかというと「自由さ」なんだと思います。授業というのは自らそれを手放しているわけです。(僕が)人間という生命において一番重要なものを喜んで手放すことを前提としている空間が大学の教室というところであり、僕はそこに居続けるにはあまりにも弱すぎたのかもしれません。

 

 この二つをどうにかしない限り、大学を卒業することはおそらく不可能なのでしょうけれど、今のところどうにかなる気配はなさそうです。困ったものですね。